top of page

床しえ


 

夢をみた。ひときわ大きな葉と、ぶらさがった大きなカタマリ。その少しうえには、小さなバナナのような房がついている。雲ひとつない青い空に向かって、新芽がすっと伸びている。ばかみたいに明るい印象がする。その根もとに男が坐っている。大きな葉に隠れて、顔がよく見えない。結跏趺坐を組んで、手は法界定印を結んでいる。「わたしにも仏性があるの」突然女の声がした。姿はない。風が吹いて大きな葉がざわざわとゆれている。その影はまるで人影のようで、少し気味が悪い。ところどころ、葉先が破れて茶色くなっている。

「わたしだって成仏したい」また女の声がした。強い風が吹いて、カタマリがゆらゆらと揺れている。男は動じることなく、平然と坐っている。

 

 

 

菩提樹の下にて

 

そのとき、ブッダ世尊はつい今しがたさとられ、ウルヴェーラーのネーランジャラー川のほとり、菩提樹の根もとにおられた。そして世尊は七日のあいだ菩提樹の根もとで、一たび足を組んだままの姿勢で、解脱の安楽を心ゆくまで味わって坐っておられた。ところで世尊は夜の初め頃に縁起を順と逆に考察された。すなわち、「無知(無明)によって生存活動(行)はあり、生存活動によって対象に向かって働く心(識)があり、心によってその対象としての名称とかたちのあるもの(名色)があり、名称とかたちのあるものによって六つの感覚機能(六処)があり、六つの感覚機能によって対象との接触(触)があり、、接触によって感受(受)があり、感受によって欲望(愛)があり、欲望によって執着(取)があり、執着によって生存(有)があり、生存によって出生(生)そのとき出生によって老いと死(老死)という憂い・悲しみ・苦しみ・嘆き・悩みが生ずる。このようにしてすべてのこの苦しみのあつまりが生起することになる。しかし無知がすっかり消滅すれば生存活動も滅し、生存活動が滅すれば対象に向かって働く心も滅し、心が滅すればその対象としての名称とかたちのあるものも滅し、名称とかたちのあるものが滅すれば六つの感覚機能も滅し、六つの感覚機能が滅すれば対象との接触も滅し、接触が滅すれば感受も滅し、感受が滅すれば欲望も滅し、欲望が滅すれば執着も滅し、執着が滅すれば生存も滅し、生存が滅すれば出生も滅し、出生が滅すれば老と死という憂い・悲しみ・苦しみ・嘆き・悩みも滅する。このようにしてすべてのこの苦しみのあつまりが滅することになる 」と。(中略)

「原始仏典 第10巻」ブッダチャリタ/梶山雄一 (講談社)より

 

 

 

梅や桜や藤ではなくて、どうしてよりにもよって芭蕉なんだ。こんなトロピカルな植物が夢に出てくるなんて、きっとこの暑さのせいだろう。

汗で貼りついたTシャツを脱ぎ捨てて時計に目をやると、8時をまわっていた。予約している診察の時間は午前10時。身支度を整えて家を出る。

初めて受診する病院にたどり着いてあぜんとした。入り口にある「産婦人科」と大きく書かれた看板の横に大きな芭蕉が植わっていた。

一瞬にして周辺を常夏の雰囲気にしているこの芭蕉を見て物悲しい気持ちになったのは、あんな夢なんか見たせいだろう。なにかをじっと待ち続けているような、そんな気がした。ふう、とため息を吐いて、入り口に向かう。

病院ってどうしてこうも待たされるんだろうか。うんざりするほど待たされたあげく、診察はほんの2、3分で終わった。クーラーの効いた病院から外へ出ると、熱気が押し寄せた。歩いて駅まで向かっているうちに、汗だくになる。帰りに温泉に寄った。中途半端な時間だったためか、わたし以外だれもいなかった。熱いお湯を湯船から汲んで肩から浴びた。湯元の栓は開けない、貧乏性なのだ。たっぷりとお湯を使うことがどうしてもできない。

この街に移り住んで一番感心したことはここの人たちが、あまりにも温泉を信じていることだ。こんなにも毎日湧き続けているものが、永遠に続くわけなんかない、もう明日にでも止まってしまうんじゃないかとわたしは思ってしまう。そもそも永久に続くものなんてあるのだろうか。

死ぬまで一生続くものさえ危ういのに、永久に、なんてばかげている。温泉から上がって、入り口に祀られた小さな薬師如来像の前を通り過ぎるとき、ふと思った。こんな風だから、わたしはばちがあたったんだろうか。

 

 

 

山岳地帯の生家の村から草の芽の束を取り寄せて、水を張ったままの沐浴の池にヤショダラみずからがそれを植えるのを、ブッダは遠く離れたところの、あのネムの木陰から見おろしていた。紫色の腰布をふとももまでたくし上げ、ほとんど四つん這いになりながら、いっぽんいっぽん草の根を水に沈めていく、日に焼けた肌のその姿は官能的ですらあった。

それまでシャカ族が主食としていた穀物はタロイモなどの根菜や稗、それにバナナだった。

水を張った奇妙な畑、水田というものをかつてみたことがある者は城のなかにはひとりもいなかったが、つねに水を張ってあるおかげでこの畑では雑草の繁殖や害虫を防ぐことができ、まわりの畔に生える草を利用して水牛を飼うこともできるのだった。

青い草の芽はすぐに人の背丈ほどにも成長して、雨期が終わって乾期に入った頃には、夕日をあびると橙色に輝く種を実らせた。刈り取った一本の稲からは二百七十粒の実を収穫することができた。この米という穀物は、ヤショダラの説明によれば、イモのように内部から虫が湧き出てくることもないし、バナナのように腐ってどろどろに溶けることも決してない、乾いた麻の袋に入れて口をきちんと縛ってさえおけばいつまでも保存のきく、永遠の食物なのだった。

ブッダの城の庭につくられた浴池の水田は、翌年には八面に広げられ、そのさらに翌年には四十八面に広げられたために、王宮の敷地内は水田だらけになった。すると城のそとにも、同じような水田がつぎつぎにつくられ始め、稲作は国じゅうに広まった。

田植えの時期に山のうえから低地を見下ろすと、まるでこの国は水没してしまったかのようだった。

 

「肝心の子供」/磯崎憲一郎(河出書房新社)より

 

 

来る日も来る日も、寝苦しい夜が続いた。ベッドに入って寝転がっていても眠れないから、目を開けてぼんやりと白い天井を見つめていた。

昼間見た芭蕉のことを思い出していたら、なんとなくヤショダラのことを思った。出家して森に行ってしまったブッダを、二度と帰ることのなかったブッダを待ち続けた妻ヤショダラのことを思った。独り王宮に残されたヤショダラと息子のラーフラ。息子に「束縛」という意味の名前をつけたブッダ。

 

「私は老いと死の恐怖を知り、魂が解放されるのを願って、この真理への道に入りました。その際、顔が涙に濡れたいとしい肉親たちを捨てました。その前に、悪の根源である欲望を捨てたのはいうまでもありません。世の中で、人が欲しがっているものは、はかないものであり、幸せを奪うもので、幻のようなものです。心の中で望むだけでも、人の心を惑わします。それが身辺にある場合は、いうまでもありません。」

 

今度はぎゅっと目を瞑ってみたけれど、やっぱり眠れなかった。悲しいことは目を瞑っても忘れることはできない。「欲しがっているものを捨てなさい」

捨てられた人の気持ちはどうなるのだろうか。そんなにもこわかった「束縛」を捨てて、本当に自由になれたのだろうか。

 

 

 

「従地湧出品」

 

仏がこのことを説かれたときに、娑婆世界の三千大千の全国土は、大地がみな地震によって裂けて、そのなかから無量千万億のボサツ・マカサツが同時に沸き出した。この多くのボサツは、身体がみな金色であり、三十二相と無量の光明とがあった。かれらは以前からことごとくこの娑婆世界の下のこの世界の虚空中にあってとどまっていたのである。そしてこの多くのボサツは、釈迦牟尼(シャークヤ・ムニ)仏が説かれた音声を聞いて、下からあらわれてきたのである。

 

「法華経現代語訳(中)」/三枝充悳(第三交明社)より

 

 

久しぶりにあの病院の前を通ると、芭蕉が切られていた。根もとからバチンと切られたその断面からは、ゼリー状の水分が溢れ出ていた。異様に目立つあのカタマリももうどこにもない。その日は満月で、空が明るかった。夜、温泉に行くとまた貸切状態だった。からだを洗っていると、おばあさんがひとり入ってきた。何度か会ったことのあるおばあさんだった。おばあさんがそっと湯元の栓を抜くと、湯口からぼこぼことお湯が湧き出てきた。上へ上へあがってくる気泡を見ていると、なんとなくこんな風にして地球ははじまったんじゃないかと思った。唐突にそんな壮大なことを思った自分に、笑ってしまう。お湯はすぐにざばーと溢れて、排水溝に吸い込まれていった。熱めのお湯に浸かっていると、「潮が満ちると、泉量が増えるんよ」おばあさんが言った。「ああ、そうですか」「海が近いけん」「なるほど」「満月やけんね」二こと、三こと会話をして、熱くなったので湯船から上がった。おやすみなさい、と挨拶を交わして脱衣室を出る。

少しクールダウンしようと思って、海沿いまで散歩した。夜の海は静かだ。波の音が心地よく響いていた。潮が満ちてまた引いて、繰り返し繰り返し少しずつ大きくなっていって、気付いた時には、湯船から溢れている。遠くに遠くに、月が離れていく。遠くに離れてしまって、もう何を考えているんだかわかるわけもない。

 

 

 

深呼吸

 

うみのそこをてのひらで撫でているとこいしとすながこぽこぽと音をたてて無数の気泡が、そらをめざして駆け上がりました。あのころ、荷電粒子が降り注ぐこの地球でいきていられる場所がほかにあったのだろうか。たっぷりと満たされているという感覚はあのころの感覚なのではないだろうか。わたしたちはきっと、深いうみのそこで呼吸していた。

シ ラ ソ ミ レ ド シ ド ミシ ラ ソ ミ レ ド シ ド ラファ ミ ファ ミ レ ド レ ミ ラファ ミ ファ ミ レ ド内側から空へ上って、空気といっしょになるとき。

 

 

 

朝起きると、床が水浸しになっていた。水道管が破裂でもしたのだろうか。ベッドから床に足を下ろすと、あたたかい水で足の裏が濡れた。

いつか、あのおばあさんが言っていた。大きな楠の木の下からお湯が湧いて泉となり、この街の温泉はそうやって始まったという。この道の下には今もあたたかい川が流れていて、その川には今もワニが住んでいるんだって。

パフォーマンスイベント「床しえ」6月25日(日)当日流れ                  会場:寿温泉女湯(大分県別府市)



 

8時 会場(女湯)入り、準備に入る。

・湯舟の中に芭蕉の葉を沈める、その上に布、碗琴設置。中にお風呂の栓を入れておく(まだ栓はしない)

・布作品を設置(両面テープで固定、養生テープも使う)布の横にキャプションも設置。

・文章配置、食器類配置

・入口に案内を貼る

・男湯の湯元の栓をしておく

   

終わり次第着替えてスタンバイ(男湯)

 

9時45分  開場

 ・すまこさん   入口スタンバイ

       案内→どうぞお入りください、ご自由にご鑑賞ください、撮影は自由にして頂けます、出入りは自由です、など

10時

   ・安部 、女湯に入り、パフォーマンススタート

   ・芭蕉の下で坐禅→5分後、コンプレッサーのスイッチを上げる(南さん)

「菩提樹の樹の下で」朗読朗読後、肩からかけている布を腰に掛け替える。

   ・湯舟の前へ→「ヤショダラ」朗読

   朗読後、布をはぐ→わたしとすまこさんではぐ。キャプションを忘れなく剥がす。たたんでベビーベッドにおく、キャプションもその上に。

   ・湯舟に入り、碗琴の前で→深呼吸 朗読

   ・一礼、碗琴演奏→「雨のうた」→ラ♯8つ鳴らす

   ・お風呂に栓をする

   ・湯舟から出て、湯元で→「従地涌出品」朗読

   ・湯元のお湯の栓を抜く

   ・戻る途中、腰布を解いて、床に広げる、水道からホースを延ばし、水を出す

   ・湯舟に戻ってお湯がたまりつつある中、浮いてくるお茶碗、芭蕉の葉を動かし音を鳴らす。

   ・ある程度の所でお茶碗と布を片付けてお盆に乗せて隅へ寄せる(一段上に)

    

・女湯の段差に腰掛けて→「床しえ」朗読

(その間、お湯がどんどん溜まっていく、足はお湯につけている)

・朗読後、お盆を持って湯舟を出る→腰布をひいたところに移動

・お茶碗を展鉢→一礼して碗琴演奏「故郷」「碗琴のかなた」

・ラ♯を持って立つ

・湯舟に入る(沐浴)

・お茶碗を洗いながら倍音を響かせる

・さいごにお茶碗になみなみのお湯を汲んで、湯舟を出る

・芭蕉の下に行き、お茶碗を置く(乳粥を捧げる)→礼拝する

・立ち上がり、女湯から出る、途中でベビーベットに置いてある布作品を持って退場

・退場後 一呼吸置いてから、すまこさん、扉を開けてアナウンス

「11時まではご自由にご鑑賞いただけます。二階での展示作品もどうぞご鑑賞ください。本日はありがとうございました。」

・安部、退場後二階に布作品を戻す

 

・11時閉場

 

 

 

当日持ち物

 

・碗琴

・周りに配置する食器

・碗琴の布

・腰布

・黒いワンピース

・スパッツ

・体を拭くタオル

・養生テープ

・両面テープ

・文章

・入り口案内

bottom of page